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繰り返される大声を信じるな

=金田一秀穂・杏林大学教授インタビュー=

2018年03月30日

社会・生活

上席主任研究員
貝田 尚重

 「紙の発明」から約2000年の時を経て、人類は再びペーパーレスな社会に突入しようとしている。ペーパーレスと言っても、紙の発明以前と現代とでは様相が全く異なる。それは、紙以外の文字を記録する媒体が存在していること。その容量が莫大であること。だれもが発信者になり得ること。その結果、紙の時代の何千倍、何万倍もの言葉の海の中に人類が放り込まれたということ...

 そんな中で、私たちはどうやって本当に伝えたい言葉を伝えたい相手に届ければよいのだろう。そして、溢れる言葉の海の中から、どんな言葉に耳を傾ければよいのか。「日本語のプロフェッショナル」の金田一秀穂・杏林大学外国語学部教授にインタビューを行い、「言葉」とどのように向きあうべきかを聞いた。

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金田一 秀穂氏(きんだいち・ひでほ)

 1953年東京都生まれ。上智大学文学部心理学科卒業、東京外国語大学大学院博士課程修了。中国大連外国語学院、米イエール大学、米コロンビア大学など海外での日本語教育に携わる。米ハーバード大学客員研究員を経て、杏林大学外国語学部教授。専門は国語学、日本語教育など。祖父の金田一京助氏は言語学・民俗学者、父の金田一春彦氏は国語学者で、三代続けて日本語のプロフェッショナル。「金田一秀穂の日本語用例採集帳」(学研プラス)、「お食辞解」(文春文庫)、「『汚い』日本語講座」(新潮新書)など著書多数。「現代新国語辞典」(学研プラス)など辞書編さんも。親しみやすい笑顔と分かりやすい解説でテレビ番組でもおなじみ。


 ―日本語のプロフェッショナルである祖父と父を持ち、同じように言葉を専門とする仕事を選ぶのに躊躇(ちゅうちょ)しませんでしたか。金田一家の看板を背負うプレッシャーは。

 「金田一」という名前がついて回るのは面倒なところもあります。でも、それほど名前に縛られているわけでもありません。むしろ、名前のおかげで、こうして取材を受けたり、執筆のチャンスがあったり、いろいろな場でモノを言う機会もあるわけですから。

 若い頃は、言葉や日本語以外のことを仕事にしようと考えたこともありました。でも結局、自分にとって言葉はとても魅力的で面白いものでした。日本で生きている以上、日本語に縛られている。その一方で、日本語によって生かされているとも感じます。日本語について考えることは、自分について考えることであり、それが日本語を研究する一番の理由です。自分のことが知りたかったんですね。

 ―言葉はモノゴトを考え、理解するための道具だということですか。

 まさに考えるための道具です。だから、言葉にないものは考えることができない。言葉のおかげで考えられるし、感じることができる。ただその裏側では、言葉のおかげで感じられなかったり、考えられなかったりもあると思うのです。「言葉にできたこと」は、「言葉にできなかったこと」の隣にあるのです。

 言葉はある意味で「デジタル」だから、レッテル貼りしてしまうんです。「反対」と口に出せば、反対になってしまうけれど、「反対」の一語では説明しきれない色々な思いが胸の中にあります。「戦争反対」と声高に叫ぶよりも、ピカソの「ゲルニカ」のほうがより深く人の心に響くかもしれません。

 目の前に胸が苦しくなるほど大好きな人がいたとして、どんなに言葉を尽くしても自分の気持ちは表現しきれないでしょう。それよりも、ギュッと抱きしめてしまうほうが、本当の思いを伝えられるのかもしれません。

 だから最終的には、僕は「言葉は無力だ」と思っています。でも、だからと言って人間は言葉を捨てることはできない。何も言わずに生きていくこともできない。その中途半端さの中でバランスを取りながら、言葉と向きあっていくしかないと思うのです。

 ―スマートフォンが辞書になり、カメラにもなり、録音もできる。声を出さなくてもSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で会話も成立する。若い人たちの言葉の力や考える力が落ちているのではないですか。

 デジタル機器は便利ですから、使わないという手はありません。僕らの時代は、もう40年も50年も前になりますが、若者は言葉でしか情報を取れないし、言葉でしか情報を発信できなかった。要するに、言葉はとっても重要であり、自分の考えを伝えたり、自分の考えを表明したりするためのほとんど唯一のメディアでした。

 ところが、今や音楽や映像、あるいはダンスや漫画など言葉以外にも自己表現のためのメディアが若者の周囲に存在しています。だから、かつてはなかった新しい色々な可能性が出てきているのかもしれない。

 「今の子は携帯でゲームばかりしている」「正しい言葉遣いができない」「単語だけで会話している」など、若者のスマホ依存やコミュニケーションのとり方を批判する大人は多い。ですが、僕らの時代に比べると、言葉以外のメディアを使って自由で面白い発信をしている人も多い。案外、捨てたもんじゃないと思っています。

 僕らの世代は紙媒体に閉じ込められていたというか、それしか選択肢がなかった。だから、小説や詩や評論でしか自己表現できないと思い込んでいた。今は、インターネットですぐに世界に発信できます。いい時代だと思うのです。YouTuberなんて、お金をそれほどかけずに大きな発信力、影響力を持っている。とてもスゴイことだと思います。

 もちろんその一方で、言葉による発信力の弱い人たちが増えているのかもしれません。でも、なんぼのもんじゃい。人間には色々なやり方があるんだもんと思います。

 僕自身は言葉でしか表現できないし、印刷媒体で生きていくしかないと思うのですけれども、これからの世代の人はそうじゃなくてもいいんだと思います。新しい表現手段を手に入れているし、それがとっても身近で手軽。うらやましいと言えば、うらやましい。才能さえあれば、何だってできる時代ですから。

 言葉はデジタルだから、時として、○か×かで選ばせてレッテル貼りしちゃう。それはとっても怖いことです。言葉では言えない、表現しきれないことが世の中にはいっぱいあるんです。言葉は無力。だから、ダンスとか、歌とか、絵とかそういうもので表現して、発信すればいいんです。

 ―インターネットやスマホは確かに便利です。でも、どんどん人間が劣化していくような気がします。

 ギリシャの哲学者ソクラテスは、ちょうど紙の本が登場しようとする過渡期の時代の人です。彼の弟子たちは著述を残していますが、本人は自分で文字を書いていません。ソクラテスは対話や問答を重んじました。だから、「本はつまらない」「紙に書かれたものは質問に答えてはくれないし、間違いを正そうとしない」「文字は人間の記憶力を失わせる」と、紙に文字で記録することには否定的だったのです。

 古代ギリシャから2000年以上の時を経て、僕らがソクラテスの思想に触れることができるのは、弟子のプラトンがソクラテスの言動を紙に記録し、「ソクラテスの弁明」という著書を残してくれたおかげです。

 ソクラテスが新しいメディアである紙に否定的だったように、僕らはデジタルの媒体をちょっと下に見たりしてしまうところがあります。もしかしたら、それは危険なことなのかもしれませんよ。何千年か経ってみると、デジタルが過去の知恵を保存し、伝える役割を果たしているかもしれない。

 ―今の大学生はデジタルネイティブ世代ですが、「紙」と「デジタル」をどう使い分けていますか。

 ノートをとらない子が多いですよ。先生が板書したのをスマホで「カシャ」って写真に撮ってお終い。僕なんてわざと黒板の前に立ってやるんですけど、「先生、邪魔です!」とか言われちゃいます。まあ今の時代、しょうがないんじゃないですかね。それで、彼らが授業の内容をきちんと理解しているかどうかは分かりませんが、「分かっている」と信じるしかないですね。彼らが「それでよし」と思っているならば、信じるしかありません。

 外部記憶装置の容量が飛躍的に大きくなり、頭で記憶する必要がなくなったのです。だから、彼らは必要なものを外部記憶装置にしまい、必要な時にそこから引っ張り出してくるのでしょう。

 ―このままデジタル化が進んで、紙は役割を終えるのでしょうか。

 実体のある「モノ」として目に見えるということは、重要なことだと思います。だって、僕らはそんなに電気信号を信用していないもん。電気信号は目には見えないし、手に取ることもできない。「紙である」「手に取れる」という存在感、実体感はうれしいものですよね。

 そういう実体感がないと、人間存在として不安定になるんじゃないですか。僕らだって、実体として存在しているのですから。SF映画のように人間が浮遊する霊魂みたいなものであるならば、情報もすべてデジタルでよいのでしょう。でも、人間が物理的な存在である限り、物理的な存在である紙には役割があると思います。紙がなくなるより前に、人間が滅びるでしょう。

 ―だれもが発信できるようになる一方で、繰り返し繰り返し発せられる情報に世論が翻弄されたり、集約されているようです。

 僕らの時代は、大学生は岩波文庫と岩波新書さえ読んでいれば何とかなったんです。でも、今の時代はそういうわけにもいきません。恐ろしい量の情報が溢れる、情報過剰の中で生きていかなければなりません。

 ただ、その情報を精査してみると、繰り返しばかりなんです。延べ数はものすごく膨らんでいますが、実質的にはそれほど多くはないと思います。だって、テレビでは相撲協会とかだれかの不倫とか、スキャンダルがあると朝から晩までどの番組でもずっと同じ話題をとり上げています。しかも、表面的な情報が繰り返されるだけで、ちっとも内容は深まっていない。

 テレビやネットニュースを見ていると、韓国や中国は従軍慰安婦や尖閣諸島をめぐる問題で反日感情が強く、四六時中、日本を牽制しているようです。日本人のことが嫌いなんだろうと感じます。でも、身の周りに目を向けると、中国や韓国から多くの旅行者が日本にやって来て観光や買い物を楽しんでいるし、アニメやアイドルのファンもたくさんいます。日本で学ぶ留学生も多いのです。逆に、日本人が旅行に行けば、とってもフレンドリーに受け入れてくれる。現地の美味しい料理を食べ、その土地が好きになって帰ってくる。ギクシャクしているのは全体ではないのです。

 一部の「声の大きな人」の極端な主張が、まるで全体の傾向であるかのようにメディアにとり上げられる。モノゴトは決して一面的ではなく、様々な側面があるのに、数字を稼げることだけが繰り返し露出される。いわゆる、ポピュリズム的なほうに流されていっているわけです。それは、とっても危険なことだろうと感じます。だから、僕は「大声で繰り返し語られることをそのまま信じるな」「疑ってかかれ」と思っています。

 ―なぜ、そんなに簡単に大声になびいてしまうのでしょうか。

 まだ、メディアリテラシーやネットリテラシーが不十分なのでしょうね。日本では「ワンフレーズ・ポリティクス」と言われた小泉(純一郎)政権からそういう傾向が始まったと思います。

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 小泉さんが発する言葉は、とても分かりやすくて親しみやすい。だから、みんなが引き込まれるのです。そして○か×か二者択一を求め、切り分けていく政治手法でした。でも、人々の暮らしも政治も、本来は複雑で曖昧なものなのです。より良い答え、より悪い答えはあったとしても、○か×かだけでスパッとは決められません。世の中はそんなに単純ではありません。

 難解なニュースを分かりやすく説明することの例えとして、「サルでも分かる」という表現が使われることがあります。でも、「サルになんて分かってたまるか!」と思います。世の中で起きていることは複雑に絡みあい、それを一つひとつ斟酌(しんしゃく)しなければいけないからです。

 でも、斟酌することは手間がかかるし、頭を使わなければならないし、面倒くさい。だから、途中を省いて分かりやすく「ストーン」と結論を提示してくれる人に引き込まれる。そういうテレビ番組をつくれば視聴率が取れる。難しいことに向きあい、考えたり判断したりしなくなっています。

 このところ人工知能(AI)の進化が著しい。もうしばらくすれば、ほとんどのことをAIができるようになるでしょう。例えば、大学センター試験だって、AIは7~8割の正答率だそうです。これからの子どもたちはそういう時代を生きていかなければならないのです。

 2013年に英オックスフォード大学の研究者がまとめた「今後10~20年で、米国の総雇用者数の47%の仕事が自動化されるリスクが高い」という論文が話題になりました。AIが進化すれば、大抵の仕事は要らなくなる。多くの人が失職するかもしれません。そういうどうなっちゃうか分からない時代にあって、○か×かデジタルに判断するような思考では行き詰まってしまいます。

 大学の授業で教えていても、今の学生はすぐに「分かりませーん」「知りませーん」と言うんです。「少しは自分で考えろよ」と思うんだけどね。でも、自分で考えるということができない。「与えられたことを覚える」ことがお勉強だと信じている。さもなくば、インターネットの中を探せば、答えが見つかると思っているのです。しかし、実は答えはないんです。

 答えのある問題なんて、世の中にそんなに多くないのです。答えが1つしかないのはセンター試験とテレビのクイズ番組ぐらいのものですよ。人間は答えのない世界で生きていかなければならない。自分で考えざるを得ない。でも、それはとっても不安なんです。だから、だれかに指針を示してほしい。模範解答を知りたい。「だれか、教えてくれよ!」と彼らは叫んでいるんです。

 ユダヤ系のドイツ人社会心理学者エーリッヒ・フロムが1941年に著した「自由からの逃走」は、ファシズムの勃興を心理学的に分析した名著として知られています。

 中世のヨーロッパでは、人々は家族や職業、教会、地域共同体など自らが所属する集団の掟(おきて)に従わなければならず、個人の自由が制限されていました。資本主義の浸透とともに、伝統的な集団の束縛は緩み、人々は自由を手にするようになったのです。しかし、だれからも縛られず、集団への所属意識が薄れると、急に孤独や不安にさいなまれ、せっかく手に入れた自由を重荷に感じてしまう。だから、強い指導者が現れると、わっーとそちらのほうに流れていったわけです。

 今の時代もそれに似ているような気がします。とっても自由でありすぎるための不安。そういうものを彼らは感じていますよね。だから、自分で自由に思索を深めるよりも、分かりやすい答えをすぐに提示してもらいたがるのです。

 ―デジタル時代に生まれた若い人たちに、大人は何をすべきなのでしょうか。

 大人ですらスマホ依存症ですから、中高生や大学生に「ダメ」「使うな」というのは難しいことだと思います。スマホというものが存在しているのが前提で、知識についての能力は多分、人間は必要としなくなっているんです。知識はインターネットの中にあるし、記憶すべきことは「外部記憶装置」に入れておけばよい時代になってきています。人間が能力を発揮すべきなのは、記憶装置に入っているものを必要な時に取り出し、自力でどうやって組み合わせるか。そこが問われるようになると思います。そして、人と人との間をつなぐのは、やっぱり人でなければならない。いくらAIが発達しても、人間以上にはならないと思うのです。

 「感情労働」的なものは、残るはずです。医者が全員失業しても、看護師は必要とされるでしょう。莫大なデータを参照して病気の診断を下すのであれば、人間よりもAIの方が正確にできる。でも、病気になった人の気持ちを慰め、病気に立ち向かう勇気を与えられるのは、やっぱり人間です。

 アイボやペッパーなどのロボットに心慰められる人もいるかもしれません。でも、生きているペットのほうがもっといいでしょ。生きている犬が人間に対して与えてくれるものを、AIがすべてできるとは思えない。AIが犬の代わりになろうと頑張っても、やっぱり本物の犬や猫のほうが断然カッコイイし、カワイイでしょう。人間だって同じです。どんなにAIの情報処理能力がアップしても、やっぱり人間でなければダメなところがあると思います。

 だから、知識は外部の記憶装置に任せるとしても、それを組み合わせたり、別の人の知恵を上手く引っ張ってきたりしながら、直面する問題に対して正しく判断できるよう、考える技術や自分自身を表現する技術を身につけてほしい。それを助けるのが年寄りの役目なんでしょうね。

 人生90年の時代になっています。僕はあと25年ぐらいで済みますから、ホッとしています。けれども今の大学生はまだ70年も生きていかなければならないのです。自由であることの辛さから逃げない、自由というケダモノを調教して大きな声に流されない、自分で判断しながら人生を送れるようにしてあげなければならないと思います。

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 ―スマホやインターネットが退屈を埋める道具になっていて、少々の退屈にも耐えられなくなっているようです。

 退屈というのはある意味、仕方のないことかもしれませんね。機械が人間の代わりに仕事をしてくれ、スマホが人間の代わりにいろいろ覚えてくれ、AIが人間の代わりに考えてくれる。かつて人間がやらなければならなかったことを代行してくれるから、当然時間が余る。でも、あり余った時間をどのように使ったらいいのか、僕ら人間はまだ習っていないんですよ。

 退屈な時間を埋めるための手段として、ゲームとかテレビショッピングとか、既に生活にスルリと入り込んできているものが一杯あります。そこで気をつけなければならないのは、商業主義に飲み込まれるのはとても危険だろうということです。

 「交換の理論」というのがあって、要するに何でもかんでもお金に換算する。何でもかんでも役に立つか立たないかを考える。役に立つのはいいこと、役に立たないものは無駄でダメなこと。お金になることはいいこと。より良い生活を目指さなければならないと無駄を排除しようとする。

 でも、そうじゃなかったはずです。人間はもっと退屈な時間、無駄なことを楽しめたはずなんです。そうやって僕らは何万年も生きてきたんだもん。これほどまでに退屈を拒否するような時代は、ここ100年ぐらいのような気がします。

 昭和の時代のお年寄りは、退屈を受け入れて不満も言わず、一日じっと黙って過ごしていた。そういうことができた最後の世代かもしれない。僕らはどうもコストパフォーマンスを重視しすぎる。ちょっとでも無駄な時間があると、埋めたくなってしまう。

 この間、仕事で仙台に行ってきたんです。東京から新幹線でわずか1時間半で着いてしまいます。本当は、せっかく出張で仙台に行くんだから、せめて一泊したいじゃないですか。松島かなんかに行って、おいしい海の幸を食べて、海をぼんやりと眺めて...。いくらでも遊べますよ。

 でも、朝の10時ごろに東京駅を出れば、昼前には仙台に到着し、パッと行って、パパパパッと仕事をさせられて、サッと帰ってくる。「俺はいったいなんのために仙台に行ったのだ。ちっとも楽しくないぞ!」と思ったのです。でも、今の世の中、それがいいことだということになっている。コストも時間も最小限で、日帰りにして効率よくお金がもらえたから、良かった良かったという考え方なんです。でも、それで本当に幸せなのか? どうも間違っていると思うんです。僕、こういう生活は嫌だな。

 もちろん、有り難いことなんですよ。仕事でお声掛けいただき、新幹線のグリーン車のチケットを手配してもらい、仙台から先はタクシーでの移動。おいしい食事も用意されているんです。でも、これは幸せではない。こういうのは、どこかで「やーめた」「こんな生活はイヤだー」って、だれかが言い出さないといけない。そろそろ言ってもいい時期じゃないですかね。

 「お金」が登場する前、人間は「贈与」の関係の中で生きていました。たくさんある人は少ない人に上げる。それは別に偉いことでもないし、上げたからと言って威張りません。多かったら、持っていない人に上げるのが当たり前だよというのが、僕らが生きてきた20万年の世界だと思うんです。それがどうも変に歪んじゃった。行き着くところまで行き着きつつある。

 だから、「もう、やーめた!」と言おうよ。多分、僕らが若者たちに残せることでもあるんじゃないかと思うんです。「交換は終わりだよ、ギフトだよ」「効率だけがすべてじゃないよ」って。人間の中にある本来の姿を見直していったほうがいいだろうなと思います。

 実際に、「やーめた!」というのを実践し、都会の生活を捨てて地方に移住したり、二拠点生活を始めたりする人が現れ始めています。若者の中には、息苦しい効率主義から距離を置こうという人もいます。お金だけが基準ではない。たとえば、ボランティアとか、NPO(非営利団体)の活動みたいなことに熱心な人も多い。交換ではなく贈与です。

 ―効率を追求する人と金銭的な価値以外のものを求める人と、二極化しているように思えます。

 色々な価値観があっていいと思うんです。それこそダイバーシティ、多様性だと思うんです。「こうでなければならない」「私たちは一つです」「一致団結しよう」とか言われるとウンザリします。「One for all, all for one.」 なんて大っ嫌いですよ。「ああ、もう止めなさいよ」と言いたくなる。「All is all.」 ですよ。それぞれがそれぞれを尊重しあう。そういう世の中にならないといけないと思うんです。

 だれもが勝手なことを言える、自由に自分の表現ができる。「ヘイト」もいれば、「大好き」もいる。徹底して営利を追求する人もいれば、NPOもいる。平和のために活動する人もいるし、「戦争しよう!」っていう人がいてもいい。そういうのを全部ひっくるめて、一つの国なんだもん。

 そういう本当の色々な考え方をそれぞれが言っていい時代。本来、インターネットというのはそういうものでしょう。これからの時代の人には、そういう風に生きていってほしいし、そういう時代を創るのがいいじゃないですか。戦争に向かうのはもちろん嫌だけど、でも一つにまとまらなければ戦争にはならないんです。みんなが違うことを言っていれば、それぞれの意見を言える世の中であれば、戦争になんてならないはずなんです。

 「一つになろう」と言って、自由に発言したり自由に考えたりするのを圧殺するようなことは、決してあってはいけない。言論の自由はきちんと認めないといけない。そして、自由であることから逃げてもいけない。何か言うと、「ちょっと危ないんじゃない」と自主規制する人とか、忖度(そんたく)する人が多いんです。そんなのは最低だよ。もっともっと自由に、自分の言いたいことを言おうよ。自分で考えようよ。

 自分が判断する材料を若者たちにきちんと知っておいてほしい。自分が考えられる本物の情報を持っていてほしいなとすごく思います。それこそが、大人が若者に伝えるべきことだと思います。

(写真)西脇 祐介 PENTAX K-50


貝田 尚重

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※この記事は、2018年3月30日発行のHeadLineに掲載されました。

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